「コミュニティ」における教祖を形作るものと教養の話

今日における「コミュニティ」について、多様性のある「コミュニティ」が存在するが、ひと昔前の好きなもの同士の集まりである「コミュニティ」(mixi時代のコミュニティとか近いのかな)に対して、単なる管理者ではなく、ある一人の教祖的存在のある「コミュニティ」が存在する。
最近では、ある特定の教祖的(「的」である事を強調したい。本来的な教祖の意味ではない)人物が、コミュニティを形成しているケースが多く見えると思う。ホリエモン、田端さん、箕輪さんとか多分そうかな。
彼らは、とある領域、業界(とはいえ個人的には広い分野かなと思うが)において、圧倒的実績、結果、知見、に加えて爆発的且つ天才的編集力を持った発信力を有していたりする。その結果、共感した人たちのコミュニティが形成されている。

または、その領域、業界、またはもっと狭義なもの(例えばカレー、銭湯、餃子など)の分野でも自分なりの分野を鋭利にする事で、発信力を研ぎ澄まされているように思う。
ただ、コミュニティを形成する上で、教祖的な存在が持つ実績や見識として、その領域のトップだけでは物足りない。

なぜならば、同じコミュニティから同じ分野で追随する者が必ず現れ、且つその領域以外の知見の無さが際立つからである。

軽い言葉でいうと、「あ、やっぱこの人筋肉の事しか知らないや」みたいに筋肉バカのレッテルを貼られる可能性もある。ところが、筋肉から「このテストステロンというのは〇〇で、実はアートカルチャーを知る事で〇〇」「筋肉を鍛えると、脳の物質である〇〇は〇〇」「米はおいしいよね。米といえば、人類の歴史の中で農耕文化というのは〇〇」「アワビの漁師なんだけど、ワカメの養殖もやっていて、、」「サンバのライブに好きな落語を取り込もうとしていて」など、同じ分野から派生した多ジャンルに向けて知見を深く無くとも広げられる人というのは非常に魅力的に感じる。

おそらく、同じ分野の延長上だと、なんとなくあの辺まで行けるかなと想像がつくが、横展開、あるいは斜め展開になった瞬間に全く想像できない領域に存在が出来上がる。

多ジャンルへの派生、それが離れていればいるほど、「え、なんでそんなところにまで知見が!!」というサプライズ感もあるのも「教祖的」な要素に必要ではないか。

そう考えると、一見無意味に見える「教養」というものが「コミュニティ」が大事にされる昨今において、重要とされる時代になったのではないかなと思う。

 

昨日、ランに深く詳しい人がトライアスロン、クライミングに知見が広い人がいて同じ事を思ったよって話。